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300年以上の歴史を持つ「四日市祭」について学ぶことで、四日市の文化について考えるきっかけにしようという主旨のもと年十二回の講座を開催する運びとなりました。それに伴い、こちらのホームページから、その講座の日程・会場をお知らせするとともに、四日市の祭りに関する貴重な情報も併せて紹介したいと思います。

黎り

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四日市祭では、神事である神輿・大山車とは別に、各氏子町から「黎物」が奉納された。「黎物」とは各町単位で神前に奉納する余興のことを言い、町によって形式や趣向などが異なったため、四日市祭はバリエーションに富んだ祭礼であったといえる。また、享保9年(1724)にはすでに黎物がいくつかあったことが文書でわかっており、安永年間(1772-1781)のものとされる各町の黎物の記録によれば、当初は「尽くし物」と呼ばれる、ひとつのテーマに基づいた仮装行列が中心だったと思われる。

江戸中期の安永年間(1772-1781)の黎物一覧を見ると、「七福神」「朝鮮人」「船づくし」「百物語」「魚づくし」「打物づくし」(「打物」とは雅楽で使う打楽器。羯鼓・三の鼓・太鼓・鉦鼓などのこと。もしくは刀剣・薙刀などの打ち合って戦うための武器のこと。)「鯨つき」「一の谷」「鹿狩り」など、ひとつのテーマによる仮装行列的な黎物が多い。

これらは神事から派生したものではなく、中世に生まれた民俗芸能の「風流」と呼ばれる系統のものと考えられる。「風流」とは、華やかな衣装や仮装を身につけて、囃し物の伴奏で群舞したもの。のちには、華麗な行列や山車、またその周りでの踊りをもいい、近世の都市祭礼では町衆が挙って工夫を凝らして神前に奉納をした。「風流」の題材に選ばれるものは、「尽くし物」といわれるあるテーマを設定しそれに関するものを集めたもの、古典や戯曲からテーマを選んだ仮装行列が代表的なものである。

三重県内では、津市の八幡神社祭礼「津祭」と「四日市祭」にこの例が顕著に見られる。四日市祭の記録にある「朝鮮人」は、津祭に現在も伝わる分部町の「唐人踊り」と同趣向のものと考えられる。

四日市祭での各町のテーマ選定の由来を探ると、その町と関わりのあるものと、全く想像ができないものとがある。前者は、魚市場があった北条町の「魚づくし」、海辺の町である南納屋・北納屋・袋町の「鯨つき」があり、桶ノ町の化け物づくしと考えられる「百物語」は、桶ノ町の“オケ”に“大化”の字をあて、そこから化け物づくしにしたという記録もある。また、時代はこれよりも後になるが、現在も伝わる「大名行列」は、比丘尼町・久六町に大名行列に協力をした宿駅常備の人馬が配されていたことから、「大名行列」を黎物にしたといわれている。

他方で、町や地域性とは関係がないものも多い。南浜田の「富士の巻狩り」もそのひとつで、源平の故事に関するものは、江戸時代の祭礼やその飾りなどにも多用された。「一の谷」は源平の一ノ谷合戦、「鹿狩り」は平維茂の紅葉狩りと思われる。また、安永年間よりも古い宝暦3年(1753)の四日市伊達家文書に、那須与一と扇の的の黎物の詳細な記録が残されており、「屋島の戦」を題材にした黎があったことがわかっている。

昭和初期には、氏子町中26ヶ町に「黎り」があった。その内訳は、からくり人形山車「小山」14輌、「鯨船」3艘、故事にちなんだ人形を台に乗せて運ぶ「釣り物」5組、仮装行列の「人練り」4組。このうち「人練り」が比較的古い形式と言え、「小山」は幕末から明治以後に盛んになったものである。

※「ネリ」の表記について

古来より「ねり」「祢里(変体仮名)」「練り」「邌り」「黎り」とさまざまな文字が使われている。文字の持つ意味や古い時代の一般的な用例を考慮すると「邌」が意に近いと考えられるが、古い時代の四日市祭の様子をよく表した幕末から明治期にかけて成立したと思われる木版画「伊勢四日市諏訪神社御祭禮黎物」に「黎」が使われていることや、「邌」は現代において常用漢字、人名用漢字、およびその異字体を合わせた約6000種の漢字(一般的な漢和辞典に掲載される漢字)に含まれていないため、「四日市市の祭りを学ぼう会」ではそれぞれの出し物のことは「黎」「黎物」の文字をつかうこととし、行動を表す場合は「練る」という字を使い、「町練り」「出練り」「練り込み」などと記すことにしている。ちなみに「黎」には「たくさんの」という意味がある。