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300年以上の歴史を持つ「四日市祭」について学ぶことで、四日市の文化について考えるきっかけにしようという主旨のもと年十二回の講座を開催する運びとなりました。それに伴い、こちらのホームページから、その講座の日程・会場をお知らせするとともに、四日市の祭りに関する貴重な情報も併せて紹介したいと思います。

氏子町が趣向を競った「黎物」

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氏子町が趣向を競った「黎物」

四日市祭では、神事である神輿・大山車とは別に、各氏子町から「黎物」が奉納されました。「黎物」とは各町単位で神前に奉納する余興のことを言い、町によって形式や趣向などが異なったため、四日市祭はバリエーションに富んだ見るものにとって非常に楽しいお祭りであったといえます。享保9年(1724)にはすでに黎物がいくつかあったことが文書でわかっており、安永年間(1772-1781)のものとされる各町の黎物の記録によれば、当初は「尽くし物」と呼ばれる、ひとつのテーマに基づいた仮装行列が中心だったと思われています。

四日市祭・練り

昭和初期においては、氏子町中の26ヶ町に「黎物」がありました。
その内訳は、

  • からくり人形を乗せた山車「小山」14輌
  • 豪華な船形山車が鯨を追う「鯨船」3艘
  • 故事にちなんだ人形を台に乗せて運ぶ「釣り物」5組
  • 仮装行列の「人練り」4組

でした。
このうち「人練り」が比較的古い形式と言え、「小山」は幕末から明治以後に盛んになったものと考えられています。昭和初期と安永年間の黎物を比較すると、ほとんどの町は内容が変わっていますが、南浜田の「富士の巻狩り」と南納屋の「鯨船(鯨つき)」はそのままで変わっていません。また、桶ノ町の安永年間の「百物語」は、おそらく化け物尽くしの仮装行列であったと推測され、「化け物」のテーマはそのままに、「大入道」に進化していったものと考えらます。

しかしこれらの黎物もほとんどが戦災で焼失し、主要部が戦災を免れ復興したものが「小山・大入道(桶ノ町(現中納屋町))」「鯨船・明神丸(南納屋町)」「人練り・富士の巻狩り(南浜田町)」の3つ、復興されたのが「小山・菅公(新丁)」「人練り・大名行列(比丘尼町(現元町))」「小山・岩戸山(本町通り)」「小山・司馬温公の甕破り(四日市商店連合会)」の4組で、現在では7組のみとなっています。また、戦前の黎物とは関係なく、戦後新たに始められたものとして「諏訪太鼓」と「御諏訪神輿」があります。